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香港からブツブツ
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昨年10月、台北出張の時に購入したショルティ最後の旅というDVDを買ったあとで、
いろいろショルティの足跡を調べたんですが、その際にとても気になるCDがでてきました。

これはハンガリーにいた時期に彼が師事を受けたバルトーク、ヴェルネル、コダーイの
作品を集めたCDです。
ショルティはユダヤ系のため、戦前祖国ハンガリーから脱出しました。
また戦後ハンガリーが共産化したこともあり、西側で音楽活動を行っていました。
東欧民主化のあと、漸く祖国に戻り、ハンガリーのブタペスト祝祭オケと録音したのがこれ。
長いショルティの録音歴で、ハンガリーのオケとの録音は初めて。
この録音の約3ヶ月後の09/05にショルティは亡くなってしまい、
最初で最期の祖国のオケとの録音となりました。

ただそれだけの理由でこのCDに興味がわいたのではなく、
録音されたバルトークの"Cantata Profana"について
ショルティ自身が語った内容があまりにも感動的だったからです。
(限定盤には彼のそのコメントと幼少時代からの彼の写真が
 おさめられた小冊子が付いています)。

1997年の2月、私はベルリン・フィルハーモニーとハンガリー放送合唱団を指揮して、バルトークの「カンタータ・プロファーナ」を演奏しました。演奏をしているうちに、私のなかに切実な思いがこみ上げてきました。それは、私の全生涯、これまでたどってきた旅の全てが、このカンタータの物語の中に含まれている、ということでした。

 物語です。九人の息子を持つ父親がいました。彼は息子達を、農民とか商人とかいったありきたりの人間にではなく、鹿を撃つ狩人に育て上げました。息子達は成長するに従って、森の奥深くにまで狩を進めて行きましたが、ある日魔法の橋を渡ったときに、彼らは  美しい鹿に姿を変えられてしまいました。

 長いこと息子達が戻らないことを心配した父は、彼らを探しに出かけました。とうとう彼はあの橋を渡り、泉のほとりに着きました。そして、九匹の鹿を見つけたのです。彼はその中の一番大きな鹿に銃でねらいをつけました。そしてまさに撃とうとした瞬間、彼は鹿が話すのを聴いたのです。その鹿は語りかけました。私は、あなたが最も愛した長男であり、もしあなたが私達のうちの誰かを撃とうとするなら、私達の角はあなたを引き裂いてしまうだろう、と。

 「私と一緒においで」と父は息子達に言いました。「お母さんは、寂しく、悲しみながら待ち続けている…・・、家には灯りも点いているし、食卓も整えてあるし、コップには飲み物もあるのだから」。息子達は言いました。「私達はけっして戻れません。私達の角は、家の戸口を通れないのですから」。捜索は哀しい事実を父に突きつけで終わりました。息子達はもう違ったものになってしまい、前の様にはけっして戻らないのだ、という。

 私はこの物語を、これまではいつもバルトークの生涯のアレゴリーとして理解してきました。しかし二月のあの日、このカンタータを指揮しながら、私は理解しました。私もまたこの鹿だったのだということを。この息子達が生まれ狩の訓練をしたように、私も生まれてそして音楽によって気持ちを通わせる訓練をしました。そして幸せなことに、私は音楽が豊かに息づいている国、ハンガリーで成長しました。そして人生の喜びとして音楽の力を熱く信じていました。

 しかしある日、まだ若かったとき、私は家族と祖国から離れました。私は音楽を追い求め、運命は私自身を私の狩のいけにえに仕立て上げました。私の人生の進展は私の角となり、祖国に帰ることを妨げました。

 私の人生は、いまや終わろうとしています。最近私は、バルトークの「カンタータ・プロファーナ」とコダーイ「ハンガリー詩篇」、ワイナーの「セレナーデ」のレコーディングを するために、少しの間ハンガリーに戻りました。これらの録音は私の先生達に感謝を示すものでした。

 ある日、私の古い友のズージ・ダンクスがやってきて、バラトンフェカジャールの村へ遠足をしないかと誘いました。それは私の父が生まれた村でした。私たちがそこに着いたとき、村の広場で多くの人が立っているのに出合いました。ズージは、私が祖先の村へ帰ったしるしに、記念の木を植える光栄を用意してくれていたのです。木のそばには、小さな銅版がはめこまれた石碑が建てられ、そこにはこう記されていました。「ショルティ・ギェルジィ、今は指揮者のサー・ゲオルグ・ショルティの訪問の記念に」。

 セレモニーが終わった後、村長は狭い村の道を通って、私達を古いユダヤ人墓地に案内しました。そこで私は、はじめて、祖父のサラモン・スターンと祖母のファニーの墓を、そして叔父のリポットの墓を見ました。第二次大戦の末期、押し寄せるロシア軍と撤退するドイツ軍の間の前線になっていたこの地区で、この墓がまだ残されていたのは奇蹟のようなものでした。

 私は午後の日差しの中に立ち、祖先の墓に囲まれ、そしてしばらくしてバラトン湖を見下ろす丘の上に立ちながら、この六十年の年月を通じてはじめて、私がどこかに属している、という思いに浸っていました。ハンガリーはふたたびヨーロッパの一部になり、垣根は取り払われたのだ、ということを悟りました。

 鹿は故郷に帰りました。彼の角は故郷のドアをくぐることが出来たのです。なぜなら、彼が不在の間に、戸口は段々高くまた広くなっていたからです。


昨日香港の中古CDショップで漸くこのCDを発見しました。
今迄日本に戻った時、結構マメに中古屋の在庫を調べていたのですが、
なかなか見つからなかったんです。
GET出来たのはこのショルティのコメントが入っている限定盤の方!!!
なお値段はHK$68(約1,000円)でした。


ショルティはハンガリーでのスタジオ録音のあと、
多忙なスケジュルをこなしそして07/12と07/13に
チューリッヒトーンハレとマーラーのSym.10の
アダージョとSym.5を演奏しましたが、
これが彼の最期コンサート。
その模様を収めたCDが近々発売されます。

(翌07/14にロンドンでROHのガラコンサートを指揮したような話もあります)

このチューリッヒトーンハレはショルティの膨大なオーケストラ作品で
初録音となった1947年の『エグモント』序曲と『レオノーレ』第3番を
収録したオケです。
ショルティが戦渦を避けて逃げ込んだスイスにあるチューリッヒトーンハレが
ショルティが録音した最初と最期のオーケストラとなりました。

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